chomoshのブログ

だいたいゲームのこと。

すべてを共感した話

ちょもすです。

 

Twitterのフォロワー一覧を何気なしに見てたら、

 

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はてなブログがいたので、

 

何気なしにツイート一覧を見てたら

 

blog.hatenablog.com

 

このブログにたどりついた。

 

やばい。すべてが「わかる」。

 

9年前にブログを開設した理由は、今となってはうろ覚えの部分もあるが、決して高尚な動機があったわけではないことは確かだ。芸術系の大学院まで出たくせにその知識や経験をひとかけらも生かせない会社に就職してしまいやる気を失っていたところに、当時のブロガーブームやフリーランスブームが重なって、「ブログを始めてみたら、何か人生が変わるかも」という淡い(甘い)期待を抱いてしまった……というのが正直なところである。ぜんぜんストイックじゃないし、はっきり言ってただの“ワナビー”(何かになりたがる人のこと)なので、ちょっと恥ずかしい。

が、今回書きたいのは、そんな不純な動機で始めても、9~10年はブログを続けられるということである。そして、9年か10年続けば、最初の動機がどうあれ、「ブログを書くこと」は自分の中で損得なしに欠かせない存在になっているということである。

 

わかる。当時はTwitterもあんまりだったから攻略情報でドヤしてえみたいな気持ちからブログを始めた。ブログに限らず発信の根源の多くは「不純」にあると思う。そしてそれでいい。

 

ただ、根っこに「たくさん読まれたい」「できればお金もちょっと欲しい」という俗っぽい欲があっても、私はそんなに器用なタイプではなかった。「自分の好きなこと、書けることを、タイトルや導入を工夫してできる範囲でより読まれるように書く」くらいしかやれることがなく、そうなるとPV的にも収益的にもけっこう低いところで天井にぶつかってしまう。それが2015年ごろのことだったと思う。

その頃は何をモチベーションにブログを更新していたかというと、「いろいろな人と会うこと」である。

私はかなり内気な性格なので初対面の人とすぐに打ち解けられることなんてほとんどないのだが、ブログを書いていると、それが事前の自己紹介や、詳細に書かれた名刺のような役割をしてくれる。同様に、相手もブログを書いている人であれば、日々どんなことを考えている人なのか、事前に知ることができる。すると、かなり内気な私でも話題に困らず、人と会うハードルがちょっとだけ下がったのだ。

「基本的に、誘われたら断らない」をモットーに、この時期はいろいろな人に会いにいろいろな場所へ出かけていた。そして2016年のはじめ、「ブログがあるから大丈夫」「なんとかなるっしょ」と当時勤めていた会社を辞め、約1カ月のあいだ、中東へ旅行に出かけてしまった……。

 

わかる。内向的な自分が発信し続けたことによって享受したメリットの一つは、自己紹介する必要がなくなったこと。知られていること。逆に言えばそこに甘えて生きてきた部分もあって、僕は自己紹介の仕方が未だにわからない。一昔前なら「オタクです」の五文字くらいは自己紹介できたものの、最近はもはやオタクですらないなと感じてきたので、「無です」みたいな自己紹介になる。三文字。最終的には「死」の一文字になる予定。

 

「ブログ読まれてるし(=認知されてるし)なんとかなるっしょ」で仕事を辞めたのも一緒。なんとかなりそうな気がしたんだよね。発信してたおかげで。なんとかなった……気はする。

 

なぜ書きたかったのかというと、私は「書きながら考える」タイプの人間だからだ。つまり、文章として書き出さないとあまり物事を深く考えられないのである。本を読んで感想を書き終わってはじめて「私はこんなことを考えていたのか」と思うし、行った美術展も、観た映画も、旅した場所も、ブログや寄稿先で文章を書いて、はじめて自分の中で立体的になる。

 

ああもうわかりすぎる。僕話すのヘタクソなんですよ。僕が面白いことを言った時があるとして、それは大体どこかで考えて、文字にして、準備したものを出してる。普通の人がキャッチボールするところを、僕は受けたボールを一回機械に入れないとうまく投げ返せないんですよね。だから事前にどんなボールが来るのか予想して、それを機械に入れた後のボールを準備してないと、うまく返せない。恥ずかしい話なんですけど。

 

終始頷ける話だった。いいもん読みました。ありがとうはてなブログ。門外漢がドヤ顔で好き放題言って悦に浸ってくるはてなブックマークと持論を補強するために人を立たせるはてな匿名ダイアリーはクソ。

 

 

 

それじゃあまた。